※ネタバレ配慮という概念はわたしにはないので紅蓮未プレイでネタバレが嫌な人は読まないでください
※特にだれに向けて書いたとかではなくて感情が書き殴られているだけです(すみません)。思想が強いかもしれません。
久しぶりにギラバニアに戻りサブクエを消化していた。最近はもっぱらツクヨミやニーズヘッグと戦いつつガンゴッシュでセイブ・ザ・クイーン関連クエストを鑑賞している。実質紅蓮ではないかというツッコミは甘んじて受ける。久しぶりにギラバニアの大地に足を踏み入れて改めてわたしはこの作品が好きだと感じたのでお気持ちを書き留めるために日記を書くに至った。
わたしは紅蓮のリベレーターが、特にアラミゴ解放関連のメインクエストが好きだ。と書くと「あれが?」と思うひともいるかもしれない。どうやら紅蓮は人気が低いようだし、紅蓮を誰かが紹介しているのを見るといつも「東方世界を旅する話」と書かれていて、アジムステップやヤンサ、ツクヨミの人気が高い雰囲気を察している。けれどわたしはアラミゴが好き。生まれてからXX年の間ずっと人生で最高のRPGはFF6だった。紅蓮のリベレーターに出会ってそれが更新された。
紅蓮のリベレーターの好きなところは一言でまとめるのなら、「正義への眼差し方」だと思っている。この辺りはドマとアラミゴでも微妙に違っているし、拡張パッチなどはまた雰囲気も違うのだけれど、アラミゴに限ればこの辺りはかなり徹底して貫かれていた大切なポイントだと思っている。紅蓮アライアンスの解放クエでリナ・ミュリラーが「正義は国や民族ではなく個人の心の中にある」と語っていた。国や民族がなんであるかが正義ではないのは明らかだけれど、アラミゴのストーリーはもっと深い話だったと思っている。正義が相対的だとか、正義の反対側が別の正義だみたいな主張をわたしはあまり信じていない。この世には明らかな悪が存在するし、それをわざわざ「反対側の正義」とする必要性はわたしには見出せない。髑髏連隊もその一つだった。しかしご存知の通りフォルドラは帝国の市民権を得たアラミゴ人の家庭で育ち、同胞からは裏切り者、ガレアン族からは蛮族と罵られて生きてきたし、それによって家族を失い、逃げようとした先でイダを失っている(※黎明秘話)。逃げることさえできなかったフォルドラに残された道はあまり多くはなかった。「帝国内で誰にも文句を言わせないような功績を作る」ことで帝国の中で自由になろうとした、それはフォルドラにとっての「正義」であっただろう。しかし、それは実際フォルドラにとってもまた他のどのアラミゴ人にとっても正義ではない。ガレアン族に「認めていただく」ことで得られる権利など、ガレアン族の気まぐれで簡単に奪い去ってしまえるようなものだからだ。そもそも権利を誰かに認められなければ得ることができないその構図そのものが歪んでいて、それは帝国が生み出した歪みに他ならない。その間で苦しむフォルドラがそれしか選択できなかったとて、髑髏連隊の罪がなくなるわけでもない。
正義や悪は生まれや人種で決まることはない。けれど、環境が人を罪人に、或いは英雄にする。それを生々しく描きながら、その中にある己の正義を決して曲げたり、善悪の大切なところを簡単に相対化せずに描き続けたのが紅蓮のリベレーターだった。印象的なシーンがある。超える力を身に付けたフォルドラと、ウリエンジェの提供したエーテルジャマーを用いて戦った時のことだ。上述の「与えられた自由」と、リセたちのつかもうとする「自由」との相違をはっきりと示した会話。フォルドラはリセに「解放軍が余計なことをしなければ私たちは帝国の中で自由になれていた」と言う。リセはそれに間髪入れず「誰かを虐げてのさばることを自由とは呼ばない」と返した。わたしはあのシーンで涙が止まらなかったし、もともと好きだったリセのことがさらに大好きになった。リセは新生から紅蓮の始まりまで通してあまり賢くはない(賢人たちと比べて、かもしれないけれど)キャラクターとして描かれてきた。しかし私はあのシーンを、あるいは紅蓮でのリセとの旅を通して彼女は本当に賢い人間なのだなと思わざるを得なかった。
きっと、たくさん悩んだのだと思う。描かれていないどこかで、自分の出自や、父親のこと、姉のこと、パパリモのことについて。自由とはなんなのか、正義とはなんなのか、『国』とはなんなのか、について。そしてリセはそれらのことに答えを見つけている。ヒエンはドマでヨツユの言葉を「聞き届け」て、何かを返すことなく斬り捨てた。それは君主として最善であったと思うけれど、リセはフォルドラとはある種対等で、言い合いができる関係にある。それでもフォルドラの考える「自由」に対して間髪入れずにそれは本当の自由とは呼ばないのだと、たった一言で、しかしはっきりと明確な理由をもって否定することができたのは、リセがそれについて考え続けてきた結果なのだと思う。ふつうに生まれて生きてきたなら考える必要のなかったたくさんのことをリセは悩んできたし、ただ悩むだけではなくてちゃんと答えもだしてきた。それができるのはリセが本当は賢い女の子だからなのだと思っている。
そして権利や自由が生まれながらに全ての人に当たり前に保証されるものであるならば、解放戦争そのものに対しても批判的な眼差しが向けられなければならない。紅蓮のリベレーターの名作たる所以は、戦いがメインでありながらそれを決して忘れなかったところにある。あれだけリセがまっすぐな正義を貫き戦い抜いた、そしてリセに限らず様々なバックグラウンドを持つドマやアラミゴの解放軍の兵士たちが皆それぞれの思いを語り時に解放後のアラミゴについて考え、そうしてゼノスを倒すに至った物語はとても美しい。その美しさに花を添えていたのが廃王テオドリックの時代からアラミゴの民のために戦ってきたラウバーンの言葉だろう。コールドハースの小さな家の前でラウバーンは「自由か死か」について語る。リセの父親だったカーティス・ヘクストがあの町で「革命で得てもよいのは自由か死かのどちらかだけだ」という演説をしたということ、そしてその時に彼の生家の壁にLiberty or deathという文字を残していったこと。
「自由か死か」は非常にロマンチックな革命の合言葉のようなものだ。皆がこれを胸に戦い、そしてアラミゴは解放される。大事なのはその後だ。ゼノスが倒れたのを見たアルフィノが「こんな男のために属州下の民は自由か死かを選ばされてきた」と発言する。さすがに涙なしには聞けない。というか今もこの文章を打ちながら目頭が熱くなってきた。
自由とは死と天秤にかけるまでもなく当たり前に全ての人が生まれながらに持っているはずのものだ。これだけ美しい革命の物語を語りながら、最後に「本当ならば剣をとらなければ自由が得られない状況が異常であり、それは帝国が生み出した歪みである」ということを明示した。それはとても重要な意味があると思う。その視点を決して忘れることのなかった紅蓮のリベレーターはやっぱり名作だったと思うし、わたしはアラミゴが好き。風脈の解放から始まる連続クエストを3つほどやって改めてそう感じたのだった。