1.クイックサンドのマーモットステーキ
ウルダハの酒場「クイックサンド」はいつだって賑やかだ。冒険者ギルドの窓口が在ることもあってか、昼夜を問わず出入りする冒険者たちは多く、喧騒に満ちている。集まってこれからの予定を立てる者、一仕事終えて眠る前に立ち寄った者。居るのは冒険者だけではない。彼らと組んで一儲けしようとした商人まで、様々な立場の者たちが交差し、また別れてゆく。淀んで腐ることもないその動きは、確かにこの酒場の名前そのままのようだ。
その片隅で。
「……なんでワシ、こんなとこにおるんじゃろうなぁ……」
「それは当然、わたくしが呼んだからですの」
しょんぼりと肩を落として呟いたララフェル族の男に、同じくララフェル族の若い女がさっくりと言い放った。慰めるというよりはむしろ、えぐるようなセリフに、男の肩がますますがっくりと落ちる。
「久々のネネリちゃんからのお誘いだと思ったのに……」
「あらお父様、実際にこうしてお誘いしているのに、何かご不満ですの」
「ご不満というか、のう……」
きょろりと落ち着きなく周囲を見回して、父と呼ばれた男……タタルクは肩身が狭そうに縮こまった。
このテーブルについているのはタタルクとネネリの二人だけだ。あとは、ネネリの従僕兼護衛であるミコッテ族の若者が、ネネリの少し離れた後ろにひっそりと佇んでいるぐらいか。糊をきかせた白いシャツに濃灰色のジレ、その上にすらりと裾が伸びた黒のジャケットをきちりと着こんでいるその姿は、いかにも従者然としている。周囲の、仕事帰りで薄汚れた鎧姿や着古した冒険者装束の中ではかなり浮いてみえるが、存在感を消していることもあってさほど悪目立ちしていない。
『悪目立ち』という意味では、この場においてタタルクの姿がその最たるものだろう。深緋に染めた豪奢な服の裾は金糸でふんだんに縁取りがされており、いかにも見るからに『金持ち』そうだ。ゴールドソーサーあたりでは違和感がないだろうが、大衆酒場とも言えるクイックサンドではあまりにも異質すぎる恰好である。
砂都ウルダハは別名「商都」と呼ばれるだけあって、多くの金とモノと情報とが集まる場所でもある。当然、それらを扱う商人たちの数も多く、生き残りを賭けた競争は熾烈だ。矢玉の代わりにギルやその他のものが飛び交うこの戦場(まち)では、金や物といった形のあるものから、知恵や情報といった形のないものまで、ありとあらゆるものが身を守る鎧であり、他者を蹴落とすための剣となる。足りないものから、容赦なく死ぬだけだ。
タタルクも、そうした世界で生きる商人のひとりである。砂蠍衆には一歩及ばぬとはいえ、己の才覚一つで商会を切り盛りしている自負がある。上流層相手に香辛料を商(あきな)っていることもあり、外食の際はもっぱら富裕層相手のレストランと決めていた。
だから、末娘のネネリから、二人での夕食の誘いがあったときも、てっきり今まで家族で行ったことのあるレストランのどれかだと思い込んでいたのだ。相次ぐ商談で少ない時間をやりくりし、場に相応しいよう衣服を整え、待ち合せ場所に向かい……娘の案内で連れてこられたのが、ここクイックサンドだった。
張り切ったのが仇となって、周囲から浮いていることこの上ないタタルクに対して、ネネリの服装はわりと一般的な町娘風だ。
親子ほどの年の差のある(実際に血のつながった親子なのだが)二人が、同じテーブルについていること自体は、クイックサンドでも珍しくはない。冒険者仲間だったり、依頼人と冒険者だったり。だが、「豪奢に装った中年男性」と「庶民らしき若い娘」となると……いろいろと、目立つ。特に、タタルクに対しては「金持ちのオッサンが若い娘相手になにやってんだ」とばかりに、非友好的な視線がざくざくと突き刺さっている。
「まさか、こんなところに来るとは思わなかったんじゃよ……」
「甘いですの、お父様。事前調査は必須ですの」
「……家族相手に、そんな面倒くさいことはしたくないんじゃ」
仕事での手間はいとわないが、それとこれとは別ということらしい。家族だからこその気安い言葉ではあるのだが、家族にだけ見せるタタルクの甘さに付け込んでいる自覚のあるネネリとしては、いろいろと申し訳ない気分にもなる。
とはいえ、手心を加える余裕など、まったくないのだけれども。
(ごめんなさいですの、お父様)
なにしろ、ネネリがこれから望むのは、初めての……そして人生を賭けた「交渉」なのだ。多少悪辣であっても、手段を選んでいる余裕はない。タタルクにとってアウェーともいえる場所を選んだのも、その手段のひとつだ。
(まずは、ひとつ)
ネネリの仕掛けた一つ目の罠には、意図通りに嵌ってくれた。おかげで現在、見知らぬ場所ということに加え、周囲の視線が気になるらしく、タタルクの挙動はやや落ち着きがない。
「というか。ネネリちゃんはなんでそんなに馴染んでるんじゃ?」
「……お父様。それでも本当に『香檀商会』会長を務めてますの?」
今更なところに気づいたタタルクに、ネネリはため息をついた。娘からの辛辣な眼差しに、タタルクはさらに肩を縮める。
「いや、まぁ、そのなんとなく想像はつくんじゃが。大丈夫かネネリちゃん、あんまり危ないことはしない約束じゃろう?」
「お父様、わたくしももう小さな子供ではありませんの」
「そうなんじゃがなぁ……親としては、心配にもなろうて」
しょんなりと眉尻を下げて、タタルクがぺしょりとつぶやく。わざとらしさ満載とはいえ、そのあまりにも打ちひしがれた様子に、ネネリは小さくため息をついた。
同時に、自然と肩の力が抜ける。思えばネネリ自身、どうしてもこの『商談』を成功させねば、と気負いすぎていたのかもしれない。少しばかり表情を和らげて、ネネリはふわりと声をかけた。
「……お父様」
「なんじゃ?」
柔らかい声音で呼びかけると、ひょこんと勢いよくタタルクが顔を上げた。先ほどまでの悄然とした様子など、微塵もうかがえない。
「今日は、お父様にお願い事がいくつかあってお呼びしましたの」
「そうかそうか。ネネリちゃんがお願いとは珍しいのう。なんじゃなんじゃ、言うてみい」
「実は……あぁ、でもその前に」
く、と控えめに背後から袖を引かれて、ネネリは話の向きを変えた。少し遅れて、女給のパパスが足音軽くネネリたちのテーブルに来る。体格に見合わぬ大きなトレイの上には、あらかじめ注文しておいた料理が所狭しと並んでいるが、それを持つパパスには危うげな様子はない。
「あいよ、マーモットステーキ2人前とフラットブレッド。飲み物は普通のオレンジジュースと蒸留酒入りオレンジジュース、お待ち!」
威勢の良い声音とともに、あっという間にテーブルの上に料理が並べられ、空腹を刺激する匂いが辺りに満ちる。ちょうど飯時ということもあって忙しいのだろう、料理を置くと慌ただしく立ち去るパパスの後ろ姿を、タタルクが目をまん丸くして見送る。ぞんざいに料理を置き、説明もせずに立ち去るなど、タタルクにとっての「接客」の概念がひっくり返る出来事だったに違いない。
「なんじゃこの店は……」
「御託はよろしいじゃないですかお父様。まずは、お料理をいただきましょう」
不満そうなタタルクに向けて、ネネリが笑顔で宣言した。
* * *
意気揚々とナイフとフォークを手にしたネネリに対し、タタルクの動作はのろのろとしたものだった。いかにも胡散臭いものを見るような眼差しで、テーブルの上を一瞥する。
「……マーモットってあれじゃろ、あのマーモットじゃろ。食べれるのか?」
「うるさいですの、お父様。まずは食べてから文句をおっしゃってくださいですの」
タタルクの懸念もわからないではない。マーモットはザナラーンに棲む野生動物で、その肉質はお世辞にも良いとは言いにくい。野生なだけあって筋肉質で、筋張って硬い。屋敷にしろ外のレストランにしろ、およそタタルクが口にしたことがない肉だろうことは間違いない。ネネリとて、屋敷を飛び出しこうして庶民の店に出入りするようになるまでは、あれが食べれるとはついぞ知らなかったぐらいだ。
ともあれ、今大事なのは、目の前の料理だけだ。父親にかまけて料理が冷めてしまったら、いろいろと台無しになってしまう。マーモットステーキは冷めてしまうと、肉の旨味よりも筋っぽさが際立つようになってしまうのだ。時間との勝負ともいえる。
「いただきます、ですの」
ふにゃりと笑みを溢して、ネネリは目の前のステーキに視線を落とした。厚めのマーモットの肉が一枚、木の皿に乗っているだけのシンプルなステーキである。一応、しんなりと炒められたワイルドオニオンと、カリカリに香ばしく揚げられたガーリックの切れ端がちんまりと肉の上に乗っかって入るが、申し訳程度に過ぎない。
メインは肉、終わり。潔いといってもいいだろう。
「よいしょ、と」
乱暴ともいえる手つきで、ネネリはぐっとナイフの切っ先を肉に押し込んだ。肉の繊維をぶちぶちと力づくで千切るような感触が、指先に伝わってくる。屋敷ではついぞ見せたことのない、淑女であるはずの娘の「庶民的なしぐさ」に、テーブルの向こう側でタタルクが驚きを隠せていないのが見えたが、とりあえず見なかったことにする。
大衆食堂で供されるナイフの切れ味など、推して知るべしである。ましてや相手がマーモットの肉ともなれば、なおさらだ。上品な手つきでは、最初の一口にありつくことすら、なかなかに難しい。
細かく切るのは難しいのでやや大きめにカットした肉を一切れ、口に入れる。真っ先に口の中に広がったのは、ワイルドオニオンをベースにしたソースの味だ。摩り下ろしてから炒めたのだろう、オニオンの圧倒的な甘味とガーリックのほんのりした辛味が、口の中になだれ込んでくる。
もぎゅもぎゅとよく噛む。噛む。咀嚼するごとに、肉のうまみが爆発的に広がってきて、ネネリはとろりと目元を緩ませた。
マーモットの肉は、一見「美味い」とわかりにくい。口に入れると蕩けるような柔らかさもなければ、脂の旨味も少ない。噛めばうまさが広がるが、それは裏返せば「よく噛まなければうまさがわからない」ということだ。
加えて、味付けが塩のみではなく、オニオンのソースというのも、良い選択と言えるだろう。聞いた話では、オニオンには肉を柔らかくする作用があるらしい。おかげで、しっかりとした肉の食感を楽しみつつ――顎の心配はしなくて済む。大変にありがたい。
「……ほう? これはこれは……」
ネネリが勢いよく食べている様に好奇心が刺激されたらしい、恐る恐るタタルクがマーモットステーキを一切れ口にして、小さく声を上げた。
「うむ、これは確かに……うむうむ」
何事か頷くタタルクをよそに、ネネリはさくさくとステーキを食べ進める。
クイックサンドはウルダハでも有数の庶民向け酒場であり、客の出入りも頻繁だ。ひっきりなしに飛び込む注文をこなしつつでは難しいだろうに、出されたステーキの火加減は完璧だった。表面はしっかりと焼き色がついているが、切り分けた肉の中心部分には微妙な赤色が残っている。そのため、ナイフを入れると僅かに滲み出る肉汁が、ソースに混じって溶けてゆくので、そのソースを肉に絡めて食べる。一切の無駄のない、完璧な循環だ。
もしこれが、中心まで完璧に火が通っていれば、おそらく肉のパサつきが気になったに違いない。マーモットの肉は脂が少なく筋張っているという性質上、加熱しすぎるとあっという間に口当たりが悪くなる。シチューに向かないのもそのためだ。中途半端な煮込み料理では筋っぽさのほうが際立ってしまう。かといって、よほどの富裕層でなければ弱火でことこと10時間も20時間も煮込むなんてことはできないし……そんなことができる富裕層は、そもそももっと高価な肉を食べている。
「なんというか、『肉!』、という感じじゃなぁ……」
「そうなんですの」
端的すぎるタタルクの言葉に、ナイフとフォークの動きを一切止めることなく、こくりと頷いた。
ソースに工夫がされているが、「ステーキ」という調理法自体は基本的ともいえるシンプルなものだ。だからこそより引き立つ、シンプルな味わい。普段の屋敷や行きつけのレストランで出される肉料理が文明的で洗練されたものだとするのなら、これは原始的な暴力だ。百年前、千年前、遠い遠い時代の人たちも、こうして肉を焼いて食べたに違いない、そう素直に思わせる力強さがある。霊災を経て今もなお、人々にこうして食されているように。
時折、一口サイズに千切ったフラットブレッドで、口の中に残る肉の旨味を拭い去りながら、黙々と食べ進める。脂ではなく「肉」の旨味だからだろうか、後味はしつこくなくさっぱりとしたものだ。
「うむ。うむ。なかなかに野趣があって、これも良いものじゃのう」
慣れない「庶民の店」に最初こそおどおどとしていたタタルクも、食べているうちに慣れてきたらしい。いつも間にやら、勝手に酒と料理を追加して、だいぶご機嫌なようだった。
(大丈夫かしら)
お上品なワインに慣れたタタルクにとって、オレンジジュースで割っているとはいえ、蒸留酒はややきついのではないか、と心配になる。特にこのクイックサンドのように、冒険者相手の酒場で出される『酒』というものは、基本的に手っ取り早く酔うためのものなので、さほど上質なものではない。
(まぁ、お父様も良い大人ですもの)
ちらりと背後に控えているミコッテ族の若者を見やる。ネネリの視線を受けて、若者……ラド・リ・カデローはひとつ小さく頷いて視線を遠くへ向けた。ラドの視線の先、離れたテーブルには何人かの見慣れた顔があった。ネネリの記憶では確か、タタルクの専属護衛を務めている者たちだ。主の邪魔にならないように、ひっそりと視界に入らない、けれどすぐに飛び出せる位置で待機しているのだろう。
(いざとなれば、あの方たちに頼めば良いでしょうし)
正体をなくすほどに酔いつぶれたとしても、寝首をかかれることはないだろう。さすがに、それぐらいの信頼関係は築いているはずだ。ついでに言うと、タタルクが酔っぱらうのはネネリにとっても大変に都合がいい。
「いやぁ、いい店に連れてきてもらったのう。ネネリちゃんに感謝じゃな!」
「うふふ」
ほくほくと嬉しそうなタタルクに、ネネリは自慢げに微笑んだ。
* * *
(そろそろ、ですの)
タタルクの様子をうかがっていたネネリは、微かに目を細めた。ネネリの懸念が的中したようで、食事を終えたタタルクの眼差しはだいぶ茫洋としているように見えた。口数も減り動きも緩慢で、明らかに眠そうだ。テーブルの上があらかた片付いており、ネネリもほどよく満腹だたころ。
ちょうどいい頃合いだ。はっきりとした判断ができるほど覚醒していないが、まったくあとで思い出せないほどには酔っていない……言われたらうっすらと思い出せる程度に判断力が鈍った、そんな頃合い。
杯を重ねたせいで、当初の予定からはだいぶ酔っているようだが、そこはまぁ、物証を残しておけばなんとかなるだろう。
「お父様?」
「……なんじゃ、ネネリちゃん」
億劫そうに問い返したタタルクに、ネネリはにこりと微笑んだ。無邪気で全力で可愛らしさを演出する(多少のあざとさは承知の上だ)、『対父親、おねだり用の笑顔』だ。
「最初にお伝えしましたけども、お父様にお願いがあって、今日お呼び立てしましたの」
「……んー。む。そんなことを言っておったような気が、するような、しないような……」
とろんと淀んだ双眸を中空に向けて、タタルクがのったりと頷いた。
ネネリの笑顔が強くなる。
「実はわたくし、『少しばかり』旅行に出ようかと思いまして。そのお許しを、いただきたいですの」
「旅行、なぁ……」
微妙に渋い表情を浮かべたタタルクに、ネネリは笑顔を崩さず頷いた。
「お父様にはご心配おかけするかもしれませんが、わたくしもいつまでも子供ではありませんもの。屋敷に閉じこもってばかりでは、いけませんでしょう?」
「むー。それはそうじゃが……どこへ行く予定なんじゃ?」
「今はまだ、決めていませんけど。もちろん、わたくし一人ではなくて、ラドも連れていく予定ですの」
「……一人じゃない、というのは良いことじゃが……それでも、なぁ……」
ネネリの言葉にタタルクは、影のように無言で控えているミコッテ族の青年ラド・リ・カデローを見やった。その眼差しには、信頼と不安とが交互に渦巻いている。
娘の護衛に長年つけてあるだけあって、腕も人格も信頼しているのだろうが、だからといって心配の種がなくなるわけでもないのだろう。
ウルダハから一歩も出たことのないネネリの『旅行』というのは、さすがにタタルクにとってはそう簡単にうなずけるものでもなかったようだ。快諾はないにしろ、しぶしぶ承諾してくれると思い込んでいただけに、これは少しネネリの予想外だった。想定よりもはるかに渋いタタルクの表情にネネリもむう、小さく唸った。
(仕方ありませんですの。ここは必殺技の出番ですの)
あまり時間をかけて、タタルクの酔いが醒めるようなことになれば意味がない。
「お願いします、お父様。お兄様やお姉さまのように、いずれお父様をお手伝いできるよう、今から少しずつで良いので見聞を広めたいですの」
自分のためだけではない。わがままに見えるかもしれないが、あくまで父親の役に立ちたいのだと、全面的にアピールする。そんなネネリの訴えかけに、タタルクははっと心を衝かれたようだった。
「そうか……そうか、ネネリちゃんもそんな年ごろになったか……。孝行娘を持って、ワシは幸せ者じゃのう……。旅行の費用は心配するな、全部ワシが出してやるからのう。楽しいお土産話を期待しておるぞ」
「はい、ええ、もちろんですの、お父様。楽しみにしてくださいませ」
今にも号泣しそうなタタルクに、内心のガッツポーズを隠して、ネネリはにこりと微笑んだ。同時に、ずっと背後に控えていたラドがすっとテーブルに歩み寄った。テーブルの上に紙を2枚、タタルクに向けて並べる。それには、なにやら小難しい文言が、小さな文字でびっしりとしたためられていた。
「では早速ですけども、こちらにお父様のサインをいただけますか? 万が一に備えて、わたくしの身分証明になるものがあったほうが良いと思いますの」
「んむ? 必要かの?」
「万が一、ですの。わたくし、あまりお屋敷から出たことがありませんでしょう? ですから、他の方から不審人物と思われる可能性も、あると思いますの。そんな時に、お父様の承認がありましたら、何よりの身分証明になりますの」
「ふむー、ネネリちゃんは用心深いんじゃなー。いいことじゃのー」
ネネリの説明を受けて、タタルクはラドの差し出すペンを素直に受け取った。そのまま、さらさらと示された場所に自筆のサインを記す。
それが終わると、ラドがサインの上に丁寧に吸い取り紙を乗せた。せっかくのサインが滲まぬよう、余分なインクを吸い取ってから、丁寧に折りたたむ。
一連の作業を見守っていたネネリに、ラドはひとつ小さく頷いた。それを受けて、ぱっとネネリが満面の笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。お父様、大好きですの!」
「わはは、そうかそうか。ワシもネネリちゃんが大好きだぞー」
でれでれと相好を崩したタタルクの姿に、ちくりとネネリの胸が痛む。
思えば、反抗期を迎えてこのかた、父に素直な感情を伝えたことなど、無かった気がする。旺盛な好奇心を持て余し、外へ出たいネネリと、「安全のため」という名目で屋敷に閉じ込めたいタタルクとで、ぶつかってばかりだった。他愛のない世間話なら容易くできるのに、本音の部分では衝突することが多くなって、いつしかタタルクに黙って行動することが増えた。
「親の心子知らず」と言ってしまえば、それだけなのかもしれない。親の目を盗んでウルダハを出歩くことが増えても、所詮はその程度で、商人として多くの人と接し多くの場所を訪れたタタルクに比べれば、まだまだ世間知らずであることは否めない事実だ。
それでも。
(ごめんなさいですの、お父様)
半ば以上、騙し討ちに近い形で目的を遂げたことに、罪悪感は募るけれど、計画を取りやめるつもりはさらさらない。
……だって、もっと広い世界を見てみたいのだ。見て、歩いて、いろんなものを食べたい。
そのメニューを屋敷で作ってもらうのは、明確に違う。だって、食事の場所の空気だって、明確に「おいしさ」にかかわってくる。きっとこのマーモットステーキだって、同じものを屋敷で出されたら、これほどまでに美味しいとは思わないだろう。
だから。
「お父様、今日は来てくださって、本当にありがとうございましたですの」
精いっぱいの感謝と小さな謝罪をこめて、ネネリは深々と頭を下げたのだった。