この旅路の中で胸に思い描いていた出会いとは違うものだった。少し名残り惜しさの残る教祖の家を、今一度振り返る。
入る前とは違って荒れ果てた家は、今は優しく、温かく見えた。
好き放題に伸びた枯れ草をかき分けて広い道へと出る。
綿毛が鼻に触れて何度もくしゃみをしていたサメが、大きなくしゃみを最後にもう一度だけした。
「いつの間に仲良くなったの」
サメの頭には先程までヒレで触れられてぷるぷると震えていたはずのリスが乗っている。
目が合うと「めぇ」と、サメから満足気な鳴き声が返ってくる。
「良かったね」そう足元の一尾ともう一匹へと声を掛けると、今度は気の抜けた返事を寄越したのであった。
陽は頭の真上を過ぎて少し傾いていた。ふと森に続く道を見ると、旅商人のような風貌の男がこちらの方へと歩いてくる。大きなカバンを背負う初老の男は、目が合うと微笑みながらこちらへ頭を下げた。
近くの村に住むという旅商人はこれから隣街へ向かうという。枯れ草の綿毛が体中に付いたサメを見て、不思議そうな顔をする商人へ、教祖の家の事について何か知ってはいないかと尋ねた。
「ここの家に住んでいる方は今どこにいらっしゃるかご存じですか?」
不意の質問に商人は少し驚いたようであったが、思い出すようにして話し始めた。
「もう25年以上前になるかねえ… 国同士のいざこざと、大移動があったのは知っているかい?」
「国同士が争っていたのは知っています。でも大移動は初めて聞きました」
知らない言葉に首を傾げる反応を見て、荒れた家を見上げながら商人は語り始めた。
「国同士の争いはどちらかが折れるまで続いた。初めは大きな街道で、街や森で、争いは場所を移して長く続いていった。街の人々は生活を捨ててただ遠くへと逃げるしかなかった。中には逃げる間も無く巻き込まれた者もいた。だが逃げたのは人だけじゃなかったのさ。川や森を、生き物や魔物たちは住処を追われて逃げ回った。…その先に人が暮らしていたとしてもだ。安全な所へと逃げるために、命を繋げるために、木を薙ぎ倒し、村を破壊しながら魔物の大移動が始まったんだ。いくつもの街や村が巻き込まれたと子どもながらに聞かされたもんだ。…この家も大移動に巻き込まれてしまったんじゃないかね。少なくとも、私が行き来しているこの10年間、人を見た事はないよ」
話が進むにつれて表情が曇っていくのを見てか、商人は「…残念だけれどもね」と眉を少し落とす。
「…そうでしたか、ありがとうございます」
こんなにやりきれない話があっていいものなのか。
震えそうになる声をぐっと堪えて商人へと頭を下げる。再びお礼を言って旅商人を見送った。
陽は傾いていき、空を薄い茜色に変えながらどんどんとその足を速めていった。
夕陽の落ちる薄紫色の絨毯の上を歩いて行く。丘の頂にある白い家は、茜空と同様にしてその白を同じ空の色へと染め込んだ。
丘の上へと登りきると、二人は肩を揃えて並んでいた。
「こんばんは、はじめまして。」
頭を下げながら挨拶をし胸に手を当てて、話し始める。
「…初めにチラシを見つけたのは、料理屋だったんです。なけなしのお金をはたいておすすめを頼んだらカエルとかたつむりが出てきて、とっても驚いたんですよ。まさか教祖さんと同じ店で、同じ料理を頂いているとは思いませんでした。その店でメテオ教の名を見つけてから旅が始まったんです。最初は意味が分からなかったけれど、…今ならよく分かります。チラシを貼るやり方は少し変わっているけれど。そうやってチラシを読んで始まった旅もあるんですよ。」
旅の始まりを思い出しながら、先を続ける。
「そういえばおはなしにあったこの子が多分サメの神様です。神様にしては少しちんちくりんだと思いませんか。めぇやおん、って猫みたいに鳴くんですよ。可笑しいですよね」
抱きかかえられたサメは二人に向かって「めぇやおん」と鳴いてみせる。
ふふ、と笑いながらサメを地面の上へと戻すと、地面で待っていたリスが、サメの背ビレを伝ってその頭の上に登った。
「それから…」
これまでの旅路に思いを馳せながら見てきた景色や感動を、その中で出逢ってきた人々の話を、丁寧に、丁寧に言葉にして紡いでいく。
森の中でこだまする雨だれの音と、それを受けて揺れる葉の音の美しさを。隣街へと果実を届ける途中で、魔物に襲われそうなった所を小さな魔術師に助けてもらった話を。
その後、辿り着いた商いの都で勢いに任せて魔法のおもちゃで散財した事や、夏の終わりの寂しさを。
秋の収穫祭で作物が実を結んだ時の喜びと、その夜、家に訪れた不可思議な出来事の怖ろしさを。
身も凍る北の地で火に身を寄せたときの安心感を、そこで出会った人々の温かさを。
いつの間にか陽はその姿を完全に隠していたが、不思議と暗くはなかった。頭上を仰ぎ見ると満点の星空が、どこまでも果てしなく広がっていたのだ。
星の一つひとつが違う色を放ち、その色を変えながら寒空にゆらめいている。心を打つ光景に見惚れていると、光り輝く星々が流れ始めた。
「…聞いててくれていたんですね」
見上げた星空がぼやけていき、涙の雫が冷えた頬を少しだけ温めながら落ちていく。
思い描いていた通りの旅ではなかった。それでもこの旅で出会えた数々のものがたまらなく愛しく、嬉しかった。
薄紫色の花々がそよ風に揺れ、優しい香りと共に冬の匂いを乗せてくる。
不思議と寒さを感じない、この冬一番の柔らかな風が吹いた。
「また、旅のおはなしをしに来ます」
魔法のおもちゃが入った小包を手渡し、静かに目を閉じる。
この声は届かないかもしれない。それでも溢れんばかりに膨らむこの胸いっぱいの思いを、伝えたかった。
最後に結んだ拳を胸の前へと当てて、祈りを捧げる。
「…旅をさせてくれて、ありがとうございます」
数日かけて再び北の都へと赴いた。
北に向かうにつれて寒風は厳しさを増していく。凍てつくような風で頬や鼻先は赤くなり、サメの鼻水は地に着かん程に伸びていく。リスは自身の体毛で丸くふっくらとしていった。
料理亭の扉を開いて中へと入ると、店内の暖気と共に料理とブドウ酒の香りが伝ってくる。暖炉が放つ仄明かりは炎の揺らめきに合わせてちらちらと明滅している。店内はまるで炎と共に静かに息をしているようだった。
石暖炉が暖めた空気に触れて、頬と鼻先に熱が戻りじんわりと温まっていく。
鼻をすすりながらカウンターの方へと向かうと、店主がこちらに気付き、皺を深めて微笑みながら手を挙げた。
料理を注文し、いつもの席に腰を掛けて座る。
他の客と話し終えた店主が布巾で手を拭いながらこちらへとやってきた。
「またこっちに来てくれたってことはあいつに会えたのかい」
複雑そうな顔をみて店主は何かを察したように洗い終えたグラスを手に取って磨き始める。
「教えて頂いた家はボロボロで、通りかかった旅の商人さんから大移動があったと教えてもらったんです。教祖さんはおそらく、もう…」
店主と教祖は同じ村出身の幼馴染だと話していた。この先の言葉をどう伝えたらいいかと逡巡していると店主が先に口を割った。
「そうかい、会いたがっていたのに悪い事をしたね」
店主は目線を落とし、話を受け留めるように黙って頷く。
「家の中に手記があったんです。教祖さんがあちこちに旅して回ってたのは、人と人を繋げる為だったんです」
教祖の手記に綴られていた彼自身の軌跡と、メテオ教と名付けられたその由来を店主へと話した。
「…思い描いていた通りの旅ではありませんでした。それでも、出逢えて良かった、旅をしてきて良かったなと思うんです。」
声が震え、やがて瞼はその思いを堪えきれず大きな雫を落とした。
「だから店主さん、教えて下さってありがとうございました」
涙を拭いながらそう声を掛けると、店主はこちらに背を向けてかつて教祖が貼り付けていったチラシを静かに眺めた。
「…本当に変な奴だよな」
こちらに背を向け呟いた店主の声は、少し震えているようだった。その背中は旅をして回っていた幼馴染へと思いを馳せているかに思われた。
「…ちょうどキッシュが焼き上がったよ。長旅で疲れてるだろう、ゆっくり休んでくれ。」
香草とチーズの香り立つキッシュが目の前に運ばれて来る。鼻をすすりながらナイフでキッシュを切り分けていると、店主が続けて口を開いた。
「…いや、一杯だけでいい。付き合ってくれないか」
そう言って、店主はこちらへと綺麗に磨かれたグラスを寄越した。
店主に挨拶をして料理亭を後にした。
料理亭の扉を閉めると小さなベルの音が扉の向こう側で聴こえてくる。
店主はグラスを傾けて、取り留めもなく思い出話を語り、こちらはこれまでの旅路の話をして応えた。
ぽかぽかと芯まで温まった体を冷気が包んでいく。酔いも手伝ってか、石畳をさらりと吹き抜ける寒風も心地良く感じられた。
眼下に広がる石の都を眺めやる。
冷たい石畳を街明かりが優しく照らし出し、遠くの民家からは白煙が夜空へと登っていく。
胸いっぱいに湧き上がる思いを、なんだか無性に吐き出したくなり、取り出したフルートに口をあてる。
ここまでの道のりは決して短くなく、ただ楽しいだけの旅でもなかった。
だが料理屋で初めて目にしたあのへんちくりんなチラシの意味も、今ならよく分かり信じることが出来る。
少女へ届くようにと教祖がそうしたように、これからの旅のおはなしを忘れてしまわないように書き綴り、時には空を見上げて話そう。
そんな思いを乗せた不慣れで拙い音色は、夜空にとろけていった。
目に映る色や冬の匂い、聴こえてくる微かな音、触れる景色のその全てが親しみやすく、そして愛おしいものに感じられる。
映りゆく景色を切り取ってお腹いっぱいに味わうと、ふわふわとおはなしが膨らんでいく。
懐から取り出した小さな手記を開き、ペンを走らせた。
現在、教団員一名と、一尾と一匹。
あなたはメテオを信じますか 終