フォロワーで
"MTの0着ズレるのダリーよ"(要約)と言う人がいた。
本稿はそれを槍玉に挙げてキャッキャウフフする文章……ではない。
それについては私も同意だが、そこから派生して、
"確率によって変動するものへの認知"について色々思うところがあったので筆を取る。
こと野良においてFirst Aggroのタイミングがズレるのは確率で表現可能な事象だと認識している。
それはMTの練度がPT毎で変動するという意味もあり、
同じMTでもトライ毎にどれだけブレるかという個人の力量に依存する公差、
あるいはそもそもMTよりも先にAggroを取るPTメンバーの存在も総括して確率として表現できる。
念の為補足しておくと、0着がブレると回しやギミック処理に影響がある。
1GCDや1アビズレることによる影響の大きさは理解している者しかここにはいない想定なので
こんなこと語るまでもないはずだが、念の為の補足である。念の為。補足。念。足ィ!
"そもそも自分がFirst Aggroを取るのでヒラさんカバーよろ"と言える傍若無人な立ち回りが許されるかどうかは別の議題だが、
この"MTの0着がズレることによる不快感"とはそもそも何なのか、ということを適当に深堀りしてみる。
確率は義務教育でやっているはずなので、その概念自体は大多数は理解しているはずだ。
問題はそれがゲームにおいて
"好まれるか否か"ということである。
"好まれる"筆頭例を挙げよう。ガチャである。
特に近年はMihoyoが隆盛を誇っているのが最たる例だが、
地軸が傾くほど顔が良くその体の柔らかさは見る男を志賀直哉に変貌させるような美女や、
「地軸が真っ直ぐに保たれたかのように誠実で、顔立ちは鋭さと優しさを兼ね備え、その姿勢はまるで風を切るように力強く、全ての視線を引き寄せる。彼の内に秘めた強さと柔軟性は、見る者に自然と敬意を抱かせ、無意識のうちに心を奪われる。まるで太陽の光が静かに包み込むように、彼の存在は周囲を明るく照らし出す」仁義なきイケメンが大好きな日本人が惜しむこともなく金を払うのは、それが一種の確率の魔に惹き込まれているからなのだろう。
尚私は男について興味がなく解像度が低いのを補うために、適当にChatGPTに出させた。
私の文章より美しくないな。修行が足りんぞ。
もっと短くしやがれガチャにおける確率というものは賭博的要素が楽しさに繋がっているのだと考えている。
このガチャという文明については、古くはスマホ黎明期のパゾォアンドドラゴォンズゥ辺りが
事の発端なのだろうが、その話を発展させるとかつて環境を席巻した艦隊コレクショナリーが
リアルマネーを使わずに建造や出撃でガチャを体現したという当時にしては画期的な設計をしたことが
大ブームの一役を買った……というのはまた別の話である。
閑話休題。……というか何の話しだったか。
ゲームにおける確率の是非だった。
まだFF14の話には戻らず、今度は確率が"一般的に望まれないもの"について語ろう。PvPである。
RTSや4Xマルチには顕著だが、
"初期立地の強弱が確率によって左右されまくる"ゲームは、好みが人によって大きく変わる。
こと4Xについては
"確率も含めて最善を尽くすことを楽しめないと厳しい"という
難解なスタートラインがある。当然マルチをする以上勝ちたいわけだが、
勝つことを最上の目標としてしまうと、クソ立地を引いた瞬間に萎えるのは必定だろうが、
一方で萎え落ちについての議論が白熱するのは、"そりゃそうだろう"とも思ってしまう。
さらに苛烈になるのはRTSだ。
未だにメインストリームの一角を為すAoE2は、初期立地の差が度々議題として挙がった。
それを改善するためにh2hでは初期立地差が極力生まれないようなカスタムマップが主流になったり、
ことイマドキのRTSでは初期立地差が生まれないようなマップ設計になっていることが大多数だ。
このような確率による不条理さが生まれないような設計は、
格ゲーやらMOBAやら対人を主体とする近年のゲームでは当たり前になっており、
それが一般的には
"競技性"という指標で語られる。
"PvPでは確率要素を極力排する設計が主流となっている"
というのがここまでに書いた内容ではあるが、興味深いことに反例もある。
その筆頭はブリザード率いる源流にも繋がっている
Warcraftをベースにしたカードゲーム、ハースストーンである。
"別に運ゲーであってもいいじゃん"という設計理念があるのは明らかなこのゲームは、
ミサイルを飛ばせば敵のランダム対象に飛んでいったり、意図的に確率を排していない。
それはカジュアルに遊ぶことに確率を上手いこと入れているという意味でもあるだろうが、
普通にプロシーンもあったりと、ひとえにブリザードの塩梅が上手い結果なのだろう。
結局確率が好まれるか否かは開発者の力量次第というなんともお粗末だが確かにそうだろうという
チラ裏よりも役に立たない結論になってしまった。
まぁ待て、ようやくFF14の話だ。FF14に着目すればもう少し深堀りできるかもしれない。
まず、レイドは
"一部"確率ゲーである。
よく私が"択ゲー"と言っているのは、
それがギミックという存在の大多数が確率によって分岐することを指している。
これ自体に不快感を得るかというと、概ね不快感はないと表現できるだろう。
最もありがちなものを考えよう。
ボスが左右どちらかの手を上げてその方向の半面が焼かれた。左右二択である。
これを見て、
"ッハ~~運ゲーマジしょーもねーわ。引退だ引退"とロドストに"Nツクヨミがクソすぎて引退します"と殴り書いて
エオルゼアを去った者は流石に見たことがない。
現状こういった択ゲーの極地を行ったのはテマだろうが、
それでも正攻法しかなかった時代でもべらぼうな不満の声といったものは無かった記憶がある。
次に人によっては不快感はあれどそこまで大きな声にはなっていないものを挙げよう。Procである。
こと詩人や踊り子に顕著だが、確率で使う技が分岐する。
いや、Procについては評価が難しい。マジョリティではないだろうが、不満の声自体はあるからだ。
しかしProcを無くしたらそれこそメカニクスがスッカスカになるぞということで、
一応はProcも問題ない分類に入れておくことにしよう。
一方で明確な不満となっているものを語ろう。
確率によるタイムライン分岐。
直近では煉獄4前。その前は覚醒4。これらは不満の声があれども、称賛の声を私は見たことがない。
特に煉獄4前。シナジーウィンドウの変化によるバーストのズレについては不満を多く聞いた。
ここまで来てようやく冒頭の不満の正体が見えてきた。
我々は、
己のスキル回しに悪影響があるような確率分岐に対して強い嫌悪感を覚えるのではないか。この説を下支えする話を加えることにしよう。
先ほど私はレイドは"一部"確率ゲーだと述べた。この一部とは何なのか。
賢明にもFF14は源流からパクった時に、"ヤバすぎる要素"はパクらなかったのだ。
また紫の怪異の話である。当時の話をそのまま書いてみよう。
「ボスのAAがランタゲ複数名対象で、詠唱阻害がついているんですけど、
これってキャスが運ゲーで詠唱止まるってことですか?」
「そうです」
「ADDめっちゃ出てくるんですけど、範囲焼きでキャスター入れたほうがいいんですよね?」
「そうです」
「でもキャスターの詠唱が運ゲーで止まるんですよね?」
「そうです」
「統計的に1つの勝利の裏に5000回のワイプがあるんですけど、DPSチェック厳しすぎませんか?」
「それが本来あるべき"DPSチェック"の姿です」
「でも確率で範囲に強いキャスターが阻害されるんですよね。どう編成すればいいんですか?」
「確率ゲーを前提として25人を編成し、ADDおよびボスをSoft Enrage中に撃破してください」"本来あるべきDPSチェック"という言葉に"確率によって回しが変動する"意味が含まれる世界観で
キャスターをやれと言ったら令和のレイドプレイヤーの大多数は泡吹いて卒倒するだろう。
ちなみにDPSチェックを槍玉に挙げているが、同様の内容がヒーラーについても言える。
これがギルドブレイカーの所以である。
この確率ゲーの極地といった設計はFF14は実装しなかった。
つまりFF14の戦闘には紫の怪異の呪いは残されなかったということになる。
"各コンテンツに想定される最善のスキル回しというものは、一意に定まるべきだ"という設計理念を充足されているかどうかというのが、
暗黙の、最早無意識レベルでのレイドプレイヤーの1つの心理的安全性になっているのではないか。
……が、わずかにしろ確率による変動は残されていたのだ。
冒頭の話がそのうちの1つだと考えればどうか。
冒頭の話についてはさらにつけ加えるべきことがある。
私はそれを確率によって表現可能な事象と定義したが、
根本を言うとそれは個人のプレイヤースキルに依存するものであって、
プレイヤーが正しく動けば本来起こり得ないことなのだ。
そう思えば性格の悪い私はこう思わざるを得ない。
"ぶっちゃけ、確率とかいう面倒なことを考えるよりも、下手打ったプレイヤーを攻めるほうが楽"だと。
想定される最善のスキル回しを崩す者を攻めることは容易い。
私であれば、
"カワボで謝ってくれれば許す"とか、
"カワボが出ない!?君何年レイドやってんの!?"とかいう言葉が脳裏に浮かぶ。
そう思えば、本文の発端となった話も本来槍玉に挙げるまでもないただの愚痴の1つなのだろう。
結果として分かったのは十何年レイドをやってる私はカワボではないということだ。
そしてカワボでないのであれば、0着はちゃんとやったほうがいいぞ。