曰。 曰く。
主利在有能而任官。 主の利は能有るを官に任ずるに在り。
臣利在無能而得事。 臣の利は能無くして事を得るに在り。
主利在有勞而爵祿。 主の利は労有りて爵禄するに在り。
臣利在無功而富貴。 臣の利は功無くして富貴たるに在り。
主利在豪傑使能。 主の利は豪傑能を使ふに在り。
臣利在朋黨用私。 臣の利は朋党私に用ゐるに在り。
-「韓非子」孤憤編 より
「韓非子」の著者韓非(紀元前280年頃~紀元前233年)(注1)は、法家思想(注2)の大成者であ
る。法家思想の先行者としては、春秋時代前期の斉の宰相管仲(注3)、春秋時代末期の鄭の宰相子
産(注4)、戦国時代中期の秦の宰相商鞅(注5)、同じく韓の宰相申不害(注6)などが挙げられ
る。いずれも政治思想として法家の理論を説いたのではなく、実際に法による統治を実践した人々で
あり、その統治手法の内容と実績が韓非に影響を与えた。韓非の思想は、ほかにも黄老思想(「黄老
の学」、「黄老刑名の学」)(注7)の系統にも連なる慎到(注8)の政治思想や、師であったとさ
れる儒家の荀子(注9)の思想からも強い影響を受けている。
韓非の法家思想は、儒家、墨家、道家のように高邁な理念を据えた統治哲学とその実践を称揚するの
でなく、冒頭のことばのように君臣の関係と人倫を功利的に捉え、そこから成文法に依拠する明確な
基準を持つ統治を導き出して、そのの実践を説いた。
秦による中国の統一に、韓非と同門とされる李斯(注10)が進めた法家思想による統治の功績が多大
であったためかどうかはわからないが、続く漢の時代以降、表向き法家思想は忌避されたのか、法家
思想が学として韓非以上に深められることはなかった。前漢では、最初期の蕭何・曹参の両相国から
景帝の時代まで、法家思想とも関わりが深いとされる「黄老の学」が統治の理念として重んじられて
いたが、実践面においては法家思想的な官僚機構による支配が根付いていく。景帝を継いだ武帝が董
仲舒(注11)の献策により儒教を国学として以降、理念としての「黄老の学」は廃れたが、官僚機構
は引き続き整備されていく。漢以降の歴代の中華王朝の統治は、理念としての儒教の君臣論や人倫観
に対し、吏による実践面は、制定法を基準として運用する法家思想的な支配装置によって行われてい
くことになる。
(注1)韓非(紀元前280年頃~紀元前233年)は戦国時代末期の思想家で、法家思想の大成者である。戦国七雄の一国、 韓の公子として生まれた。李斯(注10参照)とともに荀子(注9参照)の弟子であったとされるが、その生涯につ いて残された記事が少ないため、確かなところはわからない。文に優れ、韓王に度々献策するも用いられず、嘆い て「韓非子」全五十五篇を著した。後に秦に使者として赴き、秦王政(後の始皇帝)に気に入られて登用される機 会を得るが、韓非の才を恐れた李斯により讒言され、獄中で自死する。あるいは秦王の前で重臣の姚賈を名指しで 批判したため、恨んだ姚賈が李斯と組んで韓非を陥れ、死に至らしめたともいう。 (注2)法家は戦国時代の諸子百家の一つ。君主が制定する法を基準とする統治、法治主義を旨として、徳治、人治を説く 儒家や墨家と対立した。思想としては戦国時代末期の韓非を頂点とするが、実践面では儒家などよりも歴史的に古 く、初期の代表的人物に春秋時代初期の管仲(注3参照)が挙げられる。厳格な制定法、信賞必罰、法と術(法を 基準とする臣下の制御)による国家の運用(法術思想)を説いた。 (注3)管仲(紀元前8世紀前半~紀元前645年)は春秋時代前期の斉(姜斉)の宰相で、字の仲で知られるが、諱は夷吾 である。死後に「敬」と諡されたことから、後世「管敬仲」、「管子」とも呼ばれる。桓公に仕え、桓公を春秋時 代最初の覇者たらしめた。農漁業の環境を整備して民衆の生活を安定させ、商産業を興して国を富ませ、一方で規 律を重視して違反者を厳罰に処した。また、優秀な人材を外部からも積極的に登用し、斉を強国にした。「管子」 という書物は、戦国時代から漢代にかけて管仲に仮託されて複数の著者によりまとめられたものであり、実際に管 仲が著したものではない。 (注4)子産(紀元前6世紀初頭~紀元前522年)は春秋時代末期の鄭の宗族(祖父は鄭の穆公)で、姓は姫、氏は国、諱 は喬、子産は字である。公孫喬とも呼ばれる。鄭の正卿(宰相)として国政を執り、弱小国であった鄭の内政・外 交を安定させた。中国史上初となる成文法を制定し、それを青銅器に鋳込んだ。これは、崩れつつあった卿・大夫 ・士という身分の枠組みや宗族制度を維持するために法体系を刷新しなければならなかった必要性に迫られてのこ とであり、法という基準を明確にすることで社会秩序を保とうとする行動であった。また、孔子と同時代の人物で あり、実際に孔子と面会している(史記「鄭世家」)。 (注5)商鞅(紀元前390年~紀元前338年)は戦国時代中期の政治家、軍人、兵家である。姓は姫、氏は公孫、鞅は諱で ある。衛の公族の出身なので、衛鞅ともいう。秦の孝公に登用されて法を刷新(「変法」)し、秦の内政の改革を 推し進め、法令を社会規範とする国家体制を作り上げた。連座制の導入で民衆に法の網を掛け、分家を推奨して未 開地の開墾を活発にして民衆の暮らしを豊かにした。そうして、中原諸国から野蛮な国と見做されていた秦を強国 に押し上げた。その功績で商の地と於の地に封ぜられ、このことから商鞅と呼ばれるようになった。一方で、その 強権的な政策遂行は多くの敵、特に旧権力者であった宗族を中心に多くの敵を作っていた。孝公が死去して太子駟 (後の恵文王)が即位すると、謀反の罪を着せられそうになる。商鞅は魏に亡命しようとするが受け入れられず、 やむなく商の地で挙兵するが敗死する。然るに、恵文王は商鞅の法を廃止することなく受け継ぎ、秦はさらに国力 を高めていった。始皇帝の宰相であった李斯(注10参照)の政策が受け入れられたのも、商鞅の法によって秦では すでに法家的な施政が行われていたからであり、秦による統一の素地は商鞅の変法にあったといえる。なお、商鞅 は同時代の人々からは優れた軍略家と見做されており、兵家の書として「公孫鞅」二十七篇があったという。 (注6)申不害(紀元前4世紀初頭~紀元前337年)は戦国時代中期の政治家である。韓の昭侯に仕えて宰相となった。商 鞅(注5参照)と同時代の人物である。昭侯に法の整備と公平な論功行賞を勧め、法律至上主義で統治を行ない、 弱小国であった韓に安定をもたらした。隣国の魏や秦も申不害が宰相であった間は敢えて韓を攻めることもなかっ た。著書に「申子」二篇があったとされるが、散逸した。申不害の法律至上的な統治の実践は、韓の出身である韓 非(注1参照)に大きな影響を与えた。 (注7)黄老思想(「黄老の学」、「黄老刑名の学」)は、戦国時代中期から漢代初期にかけて隆盛した道家の政治思想の 一つである。黄帝を始祖とし、老子を大成者としたことから黄老思想と呼ばれた。「黄帝四経」と「老子」を経典 とする。君主には天道に従い、天道に逆らうことなく行動することを求め、秩序の維持の為に社会に過度に干渉す ることを戒めて統治の負担をなるべく軽くすることを説いた。「史記」の記述によれば、法家の刑名学(「刑」= 行動の実質と「名」=行動の評価の一致を厳しく求めた法治主義思想)の源流は黄老思想にあるとされている。し かし、漢の武帝の時に儒教が国学とされて以降、黄老思想は衰えてしまい、「黄帝四経」が早々に散逸してしまっ たため、その具体的な思想内容は必ずしも明確ではなかった。そのため、その実態は長らく「慎子」、「史記」、 「戦国策」、「漢書」、さまざまな逸文などから推測するしかなかったが、1973年に馬王堆漢墓三号墓から「黄帝 四経」と推定される帛書が出土し、20世紀末以降、詳細な研究が始まっている。 (注8)慎到は紀元前4世紀の趙出身の人で、戦国時代中期の論客である。斉(田斉)の宣王の時代に斉の首都臨淄に招か れた、いわゆる「稷下の学士」(臨淄の城門の一つ、「稷門」の近くに住居を与えられたことからこう呼ぶ)の一 人であった。その思想は道家(「史記」)とも法家(「漢書」、「隋書」、「旧唐書」など)ともされるが、「史 記」において「黄老道徳の術を学ぶ」と記されていることから、黄老思想(注7参照)系統の道家的理念と法家的 な政治体制論の折衷的なものと見做されている。儒家的な徳治を否定し、尚賢(実力主義)を説いて法治と官僚機 構の整備を重視する一方、民衆の自発的な行動能力を認識し、為政者が殊更に作為せずとも自然に統治が成される 社会を理想とした。著書に「慎子」四十二篇があったというが、現存するのは後世の偽作部分を含む五篇のみであ る。 (注9)荀子(紀元前4世紀末~紀元前235年頃)は戦国時代末期の儒学者で、諱は況(きょう)、「荀卿」とも呼ばれる。 その思想の柱は、「礼」の重視、「性悪説」、「後王」思想、「天人相関思想」の否定などであった。弟子として 韓非、李斯、前漢文帝の時代の丞相張蒼などが知られている。漢代を通じて荀子の思想は重んじられ、儒者に大き な影響を与えたが、その後は廃れていく。唐代に改めて低い評価がなされ(韓愈による)、宋学では特に強く批判 され、異端とされた。清代以降、考証学の発展とともに再び研究されるようになり、近代以降は思想的にも再評価 されるようになっている。 (注10)李斯(紀元前3世紀前半~紀元前208年)は戦国時代末期から秦代の政治家で、字は通古、上蔡(周代から春秋時 代にかけて存在した蔡の元の首都。当時は楚の領土であった)の出身である。韓非(注1参照)と同じく荀子(注 9参照)の門下で学んだ。呂不韋(戦国時代末期の秦も丞相。大勢の食客を抱え、「呂氏春秋」を編集させた。) の食客となり、推薦を受けて秦王政(後の始皇帝)に仕えた。呂不韋が自死した後も順調に出世し、法家思想に基 づいた富国強兵策を主導してついに秦による中国統一を成さしめた。統一後には、周に倣った封建制を進言した丞 相王綰ら重臣に対して郡県制を主張し、皇帝を中心とする強力な中央集権制を導入してついには丞相となった。李 斯の政策は中央集権制に連動したもので、各地でばらばらだった度量衡と文字の統一を行なった。また、始皇帝が 外征を始めると、国内を抑えるために思想統制を行ない、法家以外の書物を集めて焼いたり(「焚書」)、密告を 奨励して罪ありと告発された大勢の儒家をはじめとする諸家の学者を生き埋めにして殺害した(坑儒)。分裂しな がらも、戦国時代末期には依然として大勢力だった墨家は、この過程で消滅してしまった。始皇帝の死後、二世皇 帝として胡亥(始皇帝の末子)を趙高(始皇帝に仕えた宦官で、法に詳しく胡亥の傅役を勤めた)とともに擁立す るも、政権を壟断するに至った趙高との政争に敗れ、刑死した。このとき、李斯の一族は族滅された。 (注11)董仲舒(紀元前2世紀後半~紀元前2世紀末)は、前漢中期の儒者で春秋学者である。公羊学(春秋三伝のひとつ である公羊伝を解釈する学派)を修め、景帝の代に博士となった。武帝の建元元年(紀元前140年)に儒学を国学 とすることを献策し、受け入れられた。董仲舒の思想は、「災異説」に特徴づけられる。「災異説」は天人相関説 の範疇になる思想で、君主の失政と天災を「春秋」の記事から相関付け、失政は天地の陰陽を乱すが故に災異が生 ずると説いた。これが、中国に古来からあった陰陽思想を儒学に取り入れた嚆矢とされる。董仲舒のねらいは、君 主が徳を修めて善政を施せば、陰陽相和して災異生ぜず世が安んずるとし、儒教的な徳治を勧めることにあった。 このように、災異は結果であって前兆ではないとするところが要諦であり、予言的言説を退けている。多くの著作 を残したが散逸してしまい、六朝時代に再編集されたと思われる偽作を含む「春秋繁露」十七巻八十二篇のうち七 十九篇が現代に伝わっている。(この景色って、一時だけのものだよね~)
ひとつ、気づいたことがあるよ~
「ヴィエラ」なんだけど~、おんなじような背丈なのに、
「エレゼン女子」や「ルガディン女子」より、
顔の幅がでかいwww当たり判定に影響しないのか!?
ときに、うちのネコあまりにかわいかったから、
「スネリン!」と、言ってみたwww
そして、ここにきて「スカイスチールツール」はじめました!!
ではぁ、また来週! ( ´Д`)ノ~バイバァイ