前も話したような話してないようなまあいいや。
前と同じようで違う話になるだろう。
「交」(交わる)ではない。向き。
いわゆる”ぼっち耐性”のあるやつないやつ。
俺は「内向的で社交的」になる。
意味がわからんと思うかもしれないが珍しくない。
私的なことにはあまり触れられたくないが他人と話すのは嫌いじゃない。
ダンジョンや討滅に行くのが好きなのだって他人と遊べるうちの1つだから。
しかしパーティメンバーと深々と”絆”を育もうだなんて思いはしない。
そもそも絆ってなんだ。目に見えない何かを求められるのが苦手だ。
気遣いくらいなら理解できる。連携だって目に見えないが気にかける。
足並みを揃えようと思うこともある。だがこれは絆ではない。
協調性(異なった性質の者同士で任務を遂行するための素質)というやつだ。
”仲良し”とか、”絆”ってのは協調性と似てるようで全く違う。
任務がないからだ。任務抜きのなんかよくわからんつながりみたいなもんだ。きっと。
急にふわふわしたことを言い始めたが、俺はこの辺りのことがまるで分からん。
分かるでしょと言われても分からん。一人で過ごしてても寂しくない。
退屈することくらいはあるが苦しくなって悲しくなって発狂したりはしない。
恋人ほしいなんてのとも無縁だ。ツレを多少優先するところはあるがそら他に用がないからだ。
用事があればツレが何言っててもそうかそうかだ。来てくれと言われない限り行かない。
理不尽に弾き出されたら考えることくらいはあるが結局人なんてのは相性がある。
それに何をどう考えたって見えないところのことは分からないんだから最後は不毛だ。
俺には”他人が協調性を発揮する前に絆や情を試したがる”ことが分からないだけだ。
絆や情がなくても協調性は発揮できるものだ。見ず知らずの人間に道を譲ったり、
見えやすいように背の高いやつが屈んだり、観劇のときは口を閉じて大人しくしたり、
それぞれが持ってる知識だけを総動員すれば勝手に敵が死んだりする。協調性だ。
俺はヒトとして大事なものが欠けてるらしい。あまり気にしたことはない。
ヒトでなし扱いされたり、人手を失ったりしたときは少し気にするが直るもんじゃない。
いくら言われても一人でいる時間がほしい。寂しくて寂しくて死にそうになったりしない。
もし俺が寂しくて死ぬようなことが理解できるならもっと分かる事があっただろう。
知識と感覚はまったく違う。本や伝聞から学んだことを舌に乗せてみたって
どうにもならないものはたくさんある。内向的なものはその性質上、あまり集まらない。
内向的同士で集まろうとしている俺の方がどうかしているのかと思う。
内向的なように見えて、ただの寂しさこじらせただけのやつによく出会う。
どうにもならない。俺は知識では寂しさでしんでしまいそうなヤツを知っているけれど、
一体どうすれば生かせるのかわからない。何よりそいつらのために俺が苦しんだら世話ない。
ヒューランてのは弱々しい身体だな。男でも背がそんなに大きくないし、筋力も低めだし。
寒すぎるところや暑すぎるところも苦手なんだろう。そんな言葉が脳裏を過ぎ去る。
アウラってのは大変だな。主従だの部族だの、縛られるものが多そうで。
ヒューランなら自由だぞ。なんて思うやつもいるんだろうか。